その事務所は、渋谷の道玄坂にある鰻の寝床のように細長い9階建てのビルの6階あった。

坂の途中にある事務所6階の窓からは、円山町のホテル街、向かいにはキャバクラ、
背後は有名なヌード劇場とそれは素晴らしい眺めであったと、今でも覚えている。

以前からこのビルにおいては様々な怪異現象が起きており、
霊感のある部下『N』(『伸びる手』等に出演)に言わせれば
『霊道』なる幽霊の通り道がこの事務所の部屋を横断しており、
怪異現象の原因はすべてこれがが関係しているらしい。
吸っていた煙草が突然灰皿から消える。

事務所内に誰もいないのに机や椅子がバンバン叩かれる音がする。

揚げ句のはては6階の窓ガラスが突然うなり声をあげ、
外から誰かがこじ開ける様にバタバタ震える…。

また、こういった話を事務所でしていると、
部下の言う「霊道」の中に座って仕事をしている同僚が影響を受け、
突然頭痛を起こし倒れるというようなハプニングが起きたりした。

様々な怪異の中で一番頻繁にあったのが仕事中に突然、
耳もとで女性のささやき声がする、と言ったものであった。

それは、注意していないと何と言っているのか分からないような声なのだが、
テレビもラジオもついていない窓を締め切った室内で聞こえるのだ。

外から聞こえる街頭のアナウンスの声などとははっきり違うのは、
耳元でささやくその息づかいまでもが肩越しに聞こえる事であった。

さすがに、これには大半の社員がまいった。

普段、霊魂などとは無縁の者もこの声を耳を理由に事務所への待機を拒否しはじめた。

しかし、悲しいかなここは警備会社という特殊な職業のため、
各事務所は『24時間体制』が義務付けられており、
昼間はもちろん、夜間の宿直者も毎晩置かなければならなかった。

セクションの違う私は、夜間宿直のローテーションには含まれておらず安心していたのだが、
8月中旬のある夜にどうしても当番の都合が着かず、運命の当番が私にまわってきてしまった…。

当日、初めのうちは昼間勤務の同僚などが残業で何人も残っており、
何事もなく通常の夜間勤務をおこなっていた。

しかし、10時を過ぎる頃から一人、二人と同僚が帰宅し、
ふと気付くと事務所には私ひとりが残されていた。

加えて、省エネの為なのか室内は頭上の蛍光灯2灯のみを残し消されている。

本来怖がりの私は、暗がりの中にある蛍光灯のスイッチを入れに行く勇気もなく、

「あーあ。とうとう一人か…。取り敢えず軽く仮眠を取っておこうか。」

などと、自分に都合の良い理屈を言うと打ちかけのワープロの電源切り、
そのまま机に突っ伏し仮眠にはいった…。

リーン・リーン・リーン・リーン

現場からの定時連絡の電話に起こされた。

時計を見ると、針は2時を差している。

寝ぼけたままトイレへ駆け込み用事を済ませ、再び席に座り直したその時…。

バン・バン・ババン・バン・バン・ババン・バン・バン・ババン!

突然、窓ガラスを素手で叩く様な音が起こった。

「あーっ。まただよ…。」

私は慌てて頭から備付けの毛布をかぶり、机の上で両耳を塞ぎ早く眠てしまおうとした…。

窓を叩く音が始まって、4~5分程たった頃だろうか…、

バンッ!ババンッ!バン!!

今度は私周りの机が激しく、まるでドラムを叩く様に早く激しく鳴り始めた。

「こりゃ、やばい…!。」

私は危険を感じ、毛布を払い周りを見回した。

しかし、もちろん事務所の中には私以外の誰もおらず、
今の今まで鳴っていた音もピタリと止んでいた。

恐怖が頭の中も全身をも支配していた。

私には、机を離れ室内を調べる勇気もなく再び机に突っ伏し、頭から毛布をかぶった。

コツ・コツ・コツ……

間髪いれず、今度は何者かの足音が私の机の周りをぐるぐると周り始めた。

さすがに耐えられなくなった私は、大宮支社に助けを求めた。

この日、大宮支社は霊的体験のある(自称、霊的修羅場経験者)というO氏が泊まり番だった。

O氏が電話に出た。彼は、すぐ様電話から異変を感じ取ったらしく、ゆっくりと私に聞いた。

「どうしたんだ!?」

私は今までのいきさつと現状を、電話の向こうのO氏に説明した。

「分かった…………。いいか、よく聞けよ…。」

パシィーーーーーーーン!!

突如背後で何かがはじける音がした。

振り向くと、額縁のガラスが割れていた。

しかも、額は壁に掛かったままガラスだけがまるで何かに叩き割られたようにこなごなに飛び散っている。

「Oさん! ガラスが…ガラスが…。」

私は、錯乱していた。

「落ち着け!事務所に塩はないか?塩…。それを水に溶かして部屋の中に撒け!
入口の所には塩を盛れ!いいか、ただの食塩じゃねぇぞ。あら塩だ、あら塩!」

「えっ…、そんな塩、事務所にないですよ…。」

「だったら急いで買ってこい!!」

「買いに行けったって、それじゃあこっちの事務所、誰もいなくなっちゃいますよ!?」

「何もお前が出ていく必要はねえじゃねぇかよ。」

「えっ?」

「さっきから、電話口で笑っている女に買いに行かせりゃいいだろ!
第一、こんな夜中に事務所へ女を引き摺り込んで、何やってたんだ?お前はっ!。」

「…………………………!!」

私は絶句した…。

彼には女性が私とO氏の会話に笑いながら相づちをうっているのが聞こえていた。

私はパニックになりながらも、電話の大宮支社への転送切り替えを行い、
塩を買いに近くのコンビニまで飛び出していった。

そして、戻るなり尋常とは思えない程の食塩水を作り、床が水浸しになる程撒いたのだった。

驚く事にその直後からピタリと怪異現象は治まり、何事も無く朝を迎えた。

しかし私は、とうとう朝まで寝ることも出来ず、
夏の暑い日だというのにガタガタ震えながら、
翌朝代りの者に引き継いだのだった。

後日、当夜の夜間電話の録音テープは、処分された。

理由は、職場に無用の混乱を招く恐れがあるためとの事であり、
表向きは、「機械の故障による録音不備のため消去」となった・・・・・。

そして、その後も幾度となく宿直当番に恐怖はふりかかった。

しかし、幸いな事にそれから程なく、リストラによる統合のため事務所移転となった。

従業員は、皆もろ手を上げてリストラを歓迎した。

その後事務所は借手を二転三転したが、長期の入居者も無く、現在は次の借手が来るのを待っている…。

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