書こうと思うといつも気が重くなる。

格安物件の話。

結婚したばかりの頃、
あまり家賃にお金をかけられないので、
安い賃貸を探していた。

それで、不動産屋をいくつか回った中に
そこそこの物件があったので見に行くことにした。

物件自体はまあ安いなりに古いが、
特に難点もない。

大家のおじいさんも立ち会いで来ていたのだが、
こちらが何も言い出さないうちに

「5000円まけるから」

と言い出した。

不動産屋は苦笑している。

うちは元々安かった家賃から
さらに5000円も引いてくれると言うので、
もうここを借りることにした。

色々あって引っ越しを急いでいたので、
翌日から引っ越し作業を始めた。

部屋は最初に見た通りに古いが、
掃除はきちんとされていて、
エアコンも付いている。

これでこんなに安く借りられてラッキーだったなあとちょっと嬉しかった。

トイレも前日見た時に綺麗に掃除されていたので、
トイレットペーパーを設置するだけ・・・
とペーパーホルダーを持ち上げたら、
子供が貼ったらしいシールがあった。

前の住人は親子だったんだなとか考えながらシールを剥がして
ペーパーを設置する。

で、ドアを閉めたら目の前にスライド錠がある。

昨日は大家さんが開けて見せてくれて、
閉めたのも大家さんだから全然気がつかなかった。

何で外にスライド錠が付いているんだろう。

特に立て付けが悪くて開いてくる訳でもないのに。

後ろで荷物を出していた妻に錠を見せる。

用を足している時に外から閉められたら出られなくなって、
大だったら自分の臭いで窒息するわ!とか冗談を言い合うが、
外から閉めたら?
とかふと思う。

錠の高さは自分の目の高さ・・・
前の住人は恐らく子連れ。

中から閉めて開いてくるとかそんな事もなく、
もちろん開いてきたとしても外から閉めるのはおかしいなどと、
しばらく好奇心もあり、引っ越しのテンションもあり・・・
で2人で話していたが、
これってやっぱりお仕置きに閉じ込めてたのでは?という話になった。

しかし大家さんは昨日何も言わなかったし、
錠を勝手に外すわけにもいかないので、
とりあえずそのままにしておくことにした。

引っ越しの荷物を運び込んだものの、
自分は仕事の都合で1ヶ月は実家から通わなければならず、
その日から妻だけがそのアパートに住むことになった。

季節は秋。

夕方5時頃にはすでに薄暗くなってきている。

部屋は朝日は入るが西日は射さないようでかなり暗い。

新しく変えた蛍光灯を点ける。

帰る前に、押入れに大きな荷物を入れておこうと開けた時、
何か澱んだものが見えたような気がした。

背筋がすっと冷える感じがした。

しかし、それも一瞬の事だ。

押入れの暗い奥はあまりよく見えないが
別に汚れている訳でもなく、
こちらもきちんと掃除されている。

上段に1組だけの布団を入れる。

下段に本などの重いものを入れる。

妻は後ろで細々とした物を出している。

別段変わった様子もない。

スライド錠を見て
変に想像を膨らませてしまった自分の思い込みだろうと、
押入れを閉めた。

いつの間にか日が暮れている。

運び込む荷物も妻の物だけだったので、
片付けは追々するとしてご飯を食べに出る事にした。

渡されたばかりの古い玄関錠で鍵をかける。

アパートから離れると少しホッとした。

しかし妻には言えない。

妻は今晩1人でここに帰るのだ。

中華を食べながら、
これからの話をする。

あまりお金は無いが何せ新婚なのだ。

楽しみはたくさんある。

子どもが出来たら、などとも話す。

「少し大きくなって悪い事をしたらあのトイレよね」

と妻が軽口を言うが、
そこで少し会話が止まる。

どんなに悪い事をしても、
トイレに閉じ込めるなどするだろうか。

妻も同じ事を考えているらしい。

急ぎの引っ越しだったため、
今日は一日中働いたのでとても疲れていた。

妻をアパートまで送る。

自分の鍵を使って部屋を開ける。

街灯の明かりが入り、
夜の室内にダンボール箱の影が見える。

別段、それ以外は特に何か不審なものも見えない。

いや、何が見えるというのだ。

靴を脱ぎ、狭い玄関を上がる。

6畳が2間続きの向こうは台所。

奥まで大した広さでは無い。

帰る前に、運び込んだコタツを据える。

6畳間の仕切りの磨りガラスの引き戸に触れたらしく、
キキッと引っ掻いた音がした。

妻は帰りに買ったコンビニのプリンをコタツに載せ、
早くも寛いでいる。

自分は明日の朝、
仕事前にこちらに寄ると約束をし、
また靴を履いた。

妻が磨りガラスを爪で軽く引っ掻く音を立てた。

そちらを見ると妻が微笑んだ。

自分も名残惜しいが妻も同じ気持ちらしい。

しかし、今日のところは帰らなくては。

妻なら大丈夫だろう。

・・・何に対して。

真夜中、メールが届いた。

隣の部屋から引っ掻くような音がしているという。

隣は空き部屋なので、
音はネズミがいるのではないかと返事をした。

妻もそう思っているらしい。

不動産屋には明日連絡して
様子を見てもらうという事ではなしはまとまり、
その日は寝た。

翌日アパートに行くと、
妻に引っ掻く音の場所を確かめた。

音は隣の部屋の方ではなく、
部屋の無い方の壁の中らしい。

断熱材の中にネズミが巣食っているのだろうか。

不動産屋にはすぐに連絡をした。

この後、妻も仕事に出るので
立ち会わずに点検をしてもらう段取りでアパートを後にした。

妻から夕方電話があった。

不動産屋が大家さんに確認したところ、
ネズミが巣食っているような様子は引っ越す以前から無かったという。

しかし、寒くなってきたので
新たにネズミが越してきた可能性もあるので様子を見て欲しいとのこと。

自分は以前、
ネズミが電線を渡って移動しているのを見た事がある。

もしかしたらそうして移動したものが
屋根裏に入り込んだのかもしれない。

部屋の中にいる訳でも無いので、
しばらく様子をみるという事になった。

妻はアパートに帰った。

自分は残業が終わり次第向かうと電話を切った。

古いが馴染みの無い鍵を手にアパートに向かう。

コンビニのシュークリームの入った袋を持ち替えて
鍵を開けようとして後ずさる。

錠が回る。

ドアが開く。

妻の笑顔がのぞく。

妻がドアを開けてくれたのだ。

「おかえり」

自分の表情におかしなところを見つけたのだろう妻の顔が曇る。

自分は笑顔を押し出し、
シュークリームを渡す。

妻は再び微笑む。

とても可愛い。

自分は何に怯えたのだろう。

妻は可愛い。

部屋の奥の台所の向こうは掃き出し窓があり、
外に出ると狭いベランダで、
2人で選んだ小さな洗濯機が据えられている。

今日運び込まれたらしい。

その窓にカーテンがかかっている。

今日買ったらしい。

オレンジ色の可愛い小花模様のカーテンが
風で小さく揺れている。

壁や天井からネズミの音が聞こえ無いかと目をやるが
こちらが動いているとあちらは静かになるのか、
特に何も聞こえない。

妻がコーヒーを淹れに台所に向かう。

自分はコタツに入るともなしに座る。

と、微かに磨りガラスを掻く音がした。

上着のボタンが擦れたのか。

少しダンボールが残っているものの、
結構綺麗に片付いてきる。

自分たちの新居なのに、
自分の荷物が無い分、
妻の部屋に遊びに来ているみたいだ。

台所に目をやると
妻はコーヒーを淹れながらカーテンを閉めている。

「窓も閉めとけよ。物騒だから」

という自分に妻が

「閉めてるわよ」

とカーテンを半分ほど開けて答える。

いつから窓は閉まってた?

カリカリとガラスを掻く音がする。

自分の後ろから。

妻はコーヒーをコタツに置き
目の前に座る。

ガラスを掻く音が止む。

少し怖くなるが、
どう切り出せば良いのかわからない。

妻はシュークリームをつついている。

「ちょっと困ったのよね」

シュークリームをつつきながら妻が押し入れを指差す。

自分は陰の中に見たような気がしたものを思い出し、
やはり背中が寒くなる。

「電話がね」

いつの間にか、
押し入れに集中しすぎて言われた事がわからなかった。

妻が指しているのは押し入れではなく、
その上の天袋だったようだ。

夕方早くに帰ってきた妻は、
ネズミの痕跡があるなら天袋だろうと、
開けて覗いてみたらしい。

しかし、そこは予想に反して汚れておらず、
またネズミの暮らしている様子も無かった。

ただ、奥の方に茶色の袋が見え、
引っ張り出してみるとそれは重い巾着袋で、
口は巾着の紐でぐるぐる巻きに縛ってあった。

「で、中身は電話」

怪訝そうに話す妻の顔が少し強張っている。

シュークリームはつつかれているだけで
全く口にしていないところを見ると、
やはり緊張しているらしい。

立ち上がって天袋を見ようと開けるが、
開けるだけで中は見えない。

妻がコタツを寄せて上に乗るよう促す。

私は天袋の中を見た。

口の開いた巾着袋が中ほどにあり、
引き寄せると重い。

中は妻の言うように電話が入っている。

それもダイヤル式の黒電話だ。

これは一体何なんだ。

少々気味が悪い。

いつからここにあるものなのか。

何故ここにあるのか。

「電話が無い人用に置いてるのかな?」

妻が思いついたように言う。

確かに大家さんはかなりのおじいさんだったから
親切で置いてるのかもしれない。

しかし、天袋に?

「繋いでみたら使えるのかな?
こういうレトロなのも好きな人がいそうよね」

下にいる妻の顔を見る。

全くそうは思っていないらしい。

どこかに繋がったら、どこに。

私はまた電話を奥に押しやって天袋を閉めた。

その夜はアパートに泊まる事にした。

妻の事が心配になってきたからだ。

何かモヤモヤとした不安がわきあがってくる。

何かがおかしい気がする。

本当は実家に帰り、
PCで持ち帰り仕事をしなくてはならないが、
明日の朝やればいい。

自分自身も不安なのだ。

2人でお弁当を買いに外に出た。

「オークションに出したら売れるかな」

妻が冗談めかして言う。

しかしそういう妻は
多分電話を見るのも嫌なのだろう。

不動産屋に連絡してみるべきだったのかもしれない。

引き取ってもらえるように。

でも、たかが電話だ。

何となく切り出しにくいと、
そのままになってしまった。

お弁当を持って新居のアパートの前に戻る。

部屋の中は明るい。

出る時に電気を付けて出たのだ。

2人で何も言わずそうした。

暗い部屋に帰りたく無かったのだ。

多分、ここに帰りたく無かった。

鍵を開ける。

カーテンに目をやる。

動かない。

天袋は見ない。

薄気味悪い電話が透けて見えそうだからだ。

このまま妻をここに残すのは恐ろしい気もしているが、
金銭的にさらなる引っ越しはキツイ。

兎に角今日は泊まる。

そして全ては気のせいであると確かめる。

あらぬ想像をし過ぎて
無駄に不安がっているだけであると。

その夜は変な夢ばかり見た。

朝方薄暗いうちに一度目が覚めた時、
ガラスを引っ掻く音が断続的に聞こえていたような気がするが、
それもまた夢の中の出来事だったのかもしれない。

妻は夢は見なかったと言った。

数日後、妻の実家から、
飼っているプードルを少しの間預かって欲しいと連絡があった。

よく懐いた老齢のプードルで大人しく賢い。

妻は最近落ち込み気味だったので大変喜んだ。

私も妻は心配であるが、
まだ引っ越す訳にもいかなかったため
引き受けることにした。

短期間のことであるし、
不動産屋には内緒にして預かった。

私は見ていないが、犬が来た初日、
壁や押し入れに向かって唸っていたという。

妻は不安に思う反面、
心強かったという。

「夜中にガラスを引っ掻いて起こされるの。
うとうとしてやら頭の周りをぐるぐる走り回ったり、
環境が変わってやんちゃになっちゃったのかしら」

やっと仕事に目処が付き、
私はここに引っ越してきた。

妻は楽しそうに犬を見る。

私はコタツから鼻だけを出して寝ている犬と磨りガラスを見る。

アパートの空気というか雰囲気が変わったように思える。

犬のおかげなのか。

私の思い過ごしか。

そうして、
私と入れ替えるようにして預かり期間を終えた犬は
妻の実家に帰った。

そして、それらが始まった。

妻の体調が思わしく無いというか、
ハッキリとした病気では無いのだが
身体がだるいのだと言う。

もともと辞めるつもりだった仕事を辞め、
休むように促した。

妻は少し悩んでいる様子だったが私に従い、
仕事を辞めた。

妻はあのアパートに1人でいる時間が長くなった。

私は選択を誤ったのだ。

それは妻が1人でいる時間に起きるようになった。

カリカリカリカリとガラスを掻くのだ。

そちらを見ても何も無い。

ただ、音だけが続く。

それは前触れなく始まり、
やはり同じように前触れなく終わる。

そこは前にも書いたが部屋の仕切りで、
当然向こう側には何も無い。

ただのガラス戸なのだが。

隙間風か何かで震えているのだろうかと不思議がっていた妻も、
日に日に怯えが増しているようだった。

私がいる時にはそれは起こらなかった。

最初の内は。

そして、
コタツでうとうとと寝ている妻の頭の周りを
軽い足音が駆けまわる。

妻はまたプードルがはしゃいでいると
寝ぼけて思ったらしい。

しかし、犬は返したのだ。

目が覚めてそれに気がつくと
妻は青ざめたという。

仕事から帰ってきた私が見た妻の顔色は
尋常じゃ無かった。

妻は泣いたりはしなかった。

元々気丈なタイプで、
しっかり芯のある女性なのだ。

しかし、かなり我慢をしているようであった。

私は何かをする用意もなくガラス戸を掴んだ。

なんとも言えない気持ちの悪い感触が、
ガラス戸を掴む手を登ってきた。

私は悲鳴をあげそうになり歯を食いしばった。

ガラス戸から手を離せないまま
見える台所のカーテンが揺れている。

妻はこちらを向いているので
カーテンには気づかない。

しかし私の強張った顔は見ていたのだろうが、
何も言わない。

やっとの思いでガラス戸から手を引き離すと、
ガラスがキイと鳴った。

キイイイイイイイ

何かが引っ掻いている。

妻は私の腕を握り、
私はカーテンから目を離して顔を見ると
涙がこぼれている。

部屋を出たいのに力が入らない。

さっき掴んだのは
ガラス戸では無かったと手の平が伝えてくる。

アレは何だったのだろうと、
後で考えればいいのに、
どんどんどんどん疑問が噴き出してきて
考えが纏まらない。

生温かい?でも濡れてるような?

まるで、汗をかいた子供の腕を触っているような?

ずっと同じ。

引っ掻く音が聞こえる。

壁を叩くような音も。

私は天袋も気になってしょうがない。

部屋から出たいのに、
あの電話に出たくてしょうがない。

あの電話で助けを呼べばきっと誰かが






そこで妻に引っ張られてバランスを崩し、
尻餅をついた。

そしてそのまま妻に引っ張られるようにして玄関を出た。

裸足で、駆け足で、車に飛び乗り
そのまま一晩車で過ごした。

お互いに震えていた。

何かを話そうとしても
うまく言葉にできそうも無かった。

翌日はどうしようもなく取り乱していて、
仕事は休んだ。

十分に明るくなってから靴や、
最低限の身の回りの物だけ持ち出した。

もう、あそこに住むなんてできなかった。

妻は一度実家に帰り、
私も次の新居が決まるまで実家に戻った。

私はもう一度だけ、
とても晴れた日に荷物の運び出しに戻った。

友達も手伝ってくれる予定だったが、
体調不良で手伝えないと当日に連絡が来た。

3人とも。

冷蔵庫は小さかったから軽トラに積み込めたが、
洗濯機は諦めた。

それでも夕方近くまで運び出しに時間がかかってしまい
気が気じゃ無い。

最後に忘れものが無いかと押し入れを覗きこんだ時、
何かと目が合った。

その何かがこちらにいざりよって来ていた。

私は急いで押し入れを閉めた。

凄い音を立てて押し入れの戸が閉まり、
反動で少し開いた。

またカーテンが動き出した。

押し入れの隙間もじわじわと広がってきているような。

しかし、私は今度こそ外に向かって走った。

ガラス戸が鳴っていた。

払っていた分の家賃が終わった時点で
そこは引き払いました。

不動産屋に大家さんから
リフォームするから残って欲しいと言われてますがと伝えられましたが、
失礼の無いようにお断りしました。

あそこで何があったのかは全くわかりません。

これを書いて思い出してしまい
強張った背中が痛いです。

これでお話はおしまいです。

ありがとうございました。

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