美術系の専門学校に通っていた頃の話。

一年の前期は基礎学科で、
専攻がどの分野でもデッサンや色彩学なんかをやる訳だが、
この時期は課題提出が死ぬ程多かった。

加えて、授業で使う水張りパネルなんかを
事前に用意しないといけない。

片道一時間半の通学時間、
朝から6コマ授業に出て、バイトして、
夜中に課題と準備。

そんな生活をしていた俺が当時住んでいたマンションは、
駅からバス停2つ離れていて、
帰りはコンビニに寄りがてら歩く事が多かった。

コンビニを出て、
1つ目のバス停の手前辺りから住宅街になる。

車道を挟んで向かい側の川べりに
造園業の事務所があって、
バス停の斜め後ろには重機の入った車庫と、
石や植木が並んでいる。

歩きながら何とはなしに見ると、
歩道寄りにある岩の前に男がいるのが分かった。

初夏の夜8時前、
まだほんのりと闇は浅く、人通りもある。

バスを待っている間に
煙草でも吸っているのだろう。

白っぽいポロシャツを着た、
小柄でやや太めのおっさんの背中だ。

ちりりりりん!

ベルの音がして、
俺は後ろから来た自転車に振り向き、
少し避けた。

そのまま自転車の行く先を目で追うと…
何だか、違和感があった。

よく見ると、
ついさっきまで見えていたおっさんの背中がない。

目を離したのはほんの数十秒の事だ。

奥にも手前にもおっさんの姿はなく、
車庫はシャッターがぴったりと下ろされている。

通り過ぎながら敷地の中を覗いてみたが、
やっぱり誰もいない様だった。

その時点では、
俺が知らないだけでどこかに入れるか、
見間違いだろうと思った。

週の後半で、疲れも溜まっていたし。

夕食と風呂を済ませた後、
俺はリビングで絵の具と格闘していた。

机では大きなパネルと画材は広げられないので、
テーブルで作業する日が多い。

一度リビングを出て
北側の廊下に面した2部屋が両親の部屋で、
俺の部屋はリビングと並びの和室だったから、
リビングと自室の往復をしても、
先に寝ている親に迷惑をかける心配もなかった。

日付けが変わって大分経った頃。

テーブルに向かっていると、
廊下に続くドアが右側の視界に入る。

格子にガラスの入ったドアで、
親が寝ている時間、向こう側は真っ暗だ。

そこに、さっきから
ちらり、ちらりと動く物がある。

しかし、顔を向けると
それはぱっと引っ込む。

気が散る。

何もない筈の廊下で、
確かに何かが動いている。

見ると引っ込む。

手は作業を進めながら、
そっと視線をずらしてみる。


心臓が跳ね上がった。

ガラスの向こうの暗がりに、
くすんだ肌色の手があった。

出ようか戻ろうか…

逡巡して、レバー型のドアノブに乗る。

更に向こうには当然、
手の持ち主の肩が見えている。

ポロシャツ。
丸い肩。
白い。
襟からは首が覗く。

平静を装おって作業を続ける俺の視界の隅で、
そいつは様子を窺う様に首を傾げた。

ぐうっと頭が下がって来て……

浮腫んだ顔のおっさんが、
精気のない虚ろな目で部屋の中を見ていた。

「あああああああああああああ!」

俺は叫んで立ち上がった。

実際には、
さほど声は出ていなかったかもしれない。

苦情も来なかったし、
親も起きて来なかった。

我ながら馬鹿みたいだが、
喉に張り付いた声を振り絞って、
俺は宣言した。

「幻覚が見える!
もう本気でやばい!俺は寝るっ!!!」

絵の具もパネルも放ったらかしにして、
リビングもキッチンも明かりを点けたまま。

俺は自分の部屋に入ると、
引き戸をぴしゃりと閉めた。

部屋の電灯も勿論点けっ放しで、
ロフトベッドによじ登って毛布を被る。

俺の出す音が止むと、
辺りはしんと静まり返った。

気のせいだ、
徹夜続きで俺がどうかしてるんだ……。

そう思い込もうとしていた時。

「…駄目か。」

俺の部屋の戸の前で、
はっきりと聞こえた。

無論父親の声ではない、
知らない男の声だった。

それっきり、家の中は静かになった。

俺は結局、
煌々と明るい部屋でまんじりともせず朝を迎え、

外が明るくなってから
リビングをそっと覗いてみた。

勿論誰もいないし、
廊下の正面の玄関は鍵が閉まっていて、
チェーンも掛けてある。

ただ、リビングと廊下を仕切るドアだけが、
ほんの少し開いていた。

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