漫画家の仕事場と言ったら、
どんな場所を想像するだろうか。

有名作家のドキュメンタリー、
或いはドラマで見るような、
机と資料棚がずらりと並んだ立派な部屋だろうか?

実はそこそこ売れている人でも、
質素なアパートでやっている事がままある。

俺が一時期手伝いに行っていた先生はその頃、
連載が当たり、引っ越しを検討していた。

隔週刊の仕事は忙しく、
結局引っ越したのはその連載が終わった後だったのだが、
兎に角当時彼が住んでいた場所は手狭で、
アシスタントを沢山入れる事が出来なかった。

学生街の外れ、
オレンジ色の屋根、
白い壁のアパート。

スイスの山小屋みたいな意味の
可愛らしい名前が付いていたが、
古くてボロかった。

昔は靴を脱いで上がる構造だったのだろう、
玄関があって左に靴箱がある。

内廊下と内階段で、
気をつけて歩かないと強烈に軋んだ。

部屋は本来4畳半一間だが、
2階の一番端にあたる先生の部屋だけは増築されていて、
6畳あるかないかの洋間が、
玄関の屋根の上に乗っかっている。

辛うじてトイレは付いているが、
風呂はない。

台所は半畳の広さに僅かな板の間、
小さな流しと一口コンロがあるのみ。

冷蔵庫は部屋の畳の上に板を敷いて載せていた。

当時で多分37、8歳だった彼が
大学生の頃からいるのだから、
相当年季が入っている。

他の住人は多国籍で、
土曜の昼間など台所の窓を開けて仕事をしていると、
何語か分からない、
異国の歌謡曲らしきものがよく聞こえていた。

その部屋で仕事場にしていたのは増築部分の方。

エアコンがこちらにある為だ。

先生(仮に千葉さんと呼ぶ)が机、
アシスタントは折り畳みテーブルで作業をする。

4畳半の方で寝られる人数は
1人か2人がいいところで、
仕事中は2人いるレギュラーアシが
両方か交代で泊まり込んで、
後は漫画家友達や、
俺の様な日帰り出来る近隣のヘルプが出入りしていた。

当の千葉さん本人はどこで寝るのかと言えば、
器用に机の下に潜って、
短時間の仮眠を取っているのを何度か見た。

ある時、レギュラーアシが
2人とも急用で来られなくなった。

その為電車一本の所にいる俺に白羽の矢が立ち、
急遽一泊で行く事になった。

俺の作業は滞りなく進み、
夜中には手が追い付いてしまう。

千葉さんの作業が進むまでする事がなくなったので、
3時間ばかり寝てくれと言われて、
俺は4畳半の方に布団を敷いて横になった。

夏の初めのこと、
エアコンのない部屋では寝られないので、
間仕切り代わりの厚手のカーテンは開け放たれている。

明るい部屋から微かな音量で聞こえるミスチルの曲と、
カリカリとペンが紙を引っかく音を子守唄代わりに目を閉じる。

静かだ。

完全に途切れる前の、
曖昧な意識の中に。

足音が聞こえた。

玄関に足を向けて寝ている俺の足元を、
右にある仕事部屋と、
左にある冷蔵庫の間を行ったり来たりしている。

ああ、千葉さんが何かやってるんだな…と、
俺はそのまま眠りの淵に落ちた。

明け方、呼ばれて起き出して行くと

「何だか苦悶するような顔して寝てたねぇ」

と、
千葉さんは眉間に皺を寄せる真似をした。

俺は、男の寝顔を
わざわざ見る趣味があるんかオッサン、
と思ったが顔には出さず、

「それ寝てたんじゃないッスよ。
先生ずっとこっちの部屋うろうろしてたっしょ?」

足音が気になってすぐには眠れなかった、と応えた。

しかし彼は変な顔をして、

「してないよ。」

と言う。

「それ坂元君も小津君も同じ事言うんだよ。
坂元君なんかあれデカい図体して、
昼間でもオバケの足が歩いてるのが見えるとか何とか。
君もそのクチ?」

レギュラーの2人だ。

坂元さんは近畿の出で自称土蜘蛛の末裔だそうで、
霊感持ちとは言っていなかったが、
いかにもそんな話が好きそうだ。

俺の場合は寝入りばなの事だったし、
夢うつつで勘違いしただけですよ、と笑った。

多分、本当に気のせいだと思っていたし。

それから暫くして、
俺はレギュラーで手伝っていた別の先生の所が忙しくなって、
そのアパートに足を踏み入れる事はなくなった。

先生同士が友人だったから、
そちらの話は時々聞いてはいたのだが。

涼風が立ち、
いつも通りアシ先で仕事をしていたら、
千葉さんがひょっこり顔を出した。

取材土産をこちらの先生に持って来たのだ。

駅弁だったので
早速一同でありがたくいただいている間、
千葉さんは今準備中の連載が始まる前に
引っ越す事になったと話してくれた。

俺はふと思い出して、

「じゃあもう坂元さんはオバケの足に悩まされなくていい訳ですね。」

と言った。

だが千葉さんは恐い顔をして、
それだよ、と俺を指差した。

「実は先月、僕も足音を聞いたんだ…。」

え?マジで?

前の連載が無事終了し、
休む間もなく次の連載の準備をしていた千葉さんは、
その日もネーム(漫画の設計図みたいな物、絵コンテ)をやっていたらしい。

けれど昼夜の別なく机に向かい、
彼はすっかり疲れ切っていた。

仕事中のいつもの癖で、
少しだけ眠ろうと机の下に潜る。

どの位時間が経っただろうか。

エアコンの効きを良くする為に
閉め切ったカーテンの向こうで、
足音がする。

4畳半をひたひたと歩く音。

ああ、坂元君達が言っている足音はこれか……。

千葉さんはぼんやりと思いながらも、
そのまま眠ってしまった。

目が覚めると夕方で、
千葉さんは随分寝ちゃったな…と思いながら立ち上がり、
作り置きの麦茶を取りに冷蔵庫へ向かおうとした。

ところが。

カーテンを開けると、
台所の下の開きと、
押し入れが開きっ放しになっていた。

窓には間仕切りと同じ
季節感のないカーテンを引いている為に、
室内は薄暗い。

だが、押し入れの下段にいれた箪笥は
引き出しが全部開けられており、
上段からは布団袋がずり落ちていて、
刃物か何かで切り裂かれて中身がはみ出している。

見れば、玄関の扉も半開きになっている。

勿論普段は在宅時にも鍵を掛けているのに。

そしてその向こうに、
隣人と大家の姿があった。

よくよく聞いてみれば、
千葉さんが眠っている間に空き巣が入ったのだった。

このアパートは昼間働いている人が多く、
鍵もボロい為に入り放題だったらしい。

千葉さんは本来ない筈の部屋、
しかも机の下の陰の部分で眠っていた為、
犯人とはち合わせせずに済んだのではないかと言う話だった。

もし足音が聞こえた時に、
その正体を確かめに行っていたら…。

考えるだに恐ろしい。

これですっかりボロ屋に懲りた千葉さんは、
忙しさにかまけて中断していた新居探しを再開したと言う訳だ。

今では立派なマンションの一室におさまっている。

結局千葉さんが聞いたのは生きた人間の足音だったのだけれど、
ならば坂元さん、小津さん、俺がそれぞれ見聞きしたものは何だったんだろう?

2人がそれに遭遇したのは一度や二度ではないし、
俺はそれを知らなかった。

千葉さんが引っ越した後も
そのボロアパートはあるみたいだけど、
もしそんな場所に住む事になったら、
あなたは足音の正体を確かめますか?

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