当時大学生であった僕と、
高校生以来からの友人の二人で酒を酌み交わしていた。

ここでは友人の名を仮に木村としておく。

立飲みで酒の回りが早かったのか、
木村はいつも以上に饒舌だった。

「実はさあ、出るんだよウチのアパート。」

木村のアパートは風呂無し四畳一間のボロだったが、
家賃は都内にしては破格の一万円台だった。

「何って、幽霊だよ幽霊。」

木村はその内容に相反して
とても嬉しそうな口調で語った。

前から怖いもの知らずのきらいがあった木村にとって、
幽霊とは人生を彩る要素の一つに過ぎなかったのだろう。

「夜中の決まった時間に目が覚めるんだけど、
俺は金縛りになってて動けないんだ。
そしていつも黒い影が俺の顔を覗きこんでくるんだよ。」

金縛りといっても半覚醒の状態で、
体が眠っていて動けないだけ。

幻覚を見ることも多々ある。

僕は木村にそう言った。

「始めは俺もそう思ってたさ。
でもな、最近夜中以外でも黒い影を見かけるようになったんだよ。
その黒い影はずっと俺の方を向いてくるんだ。
流石の俺でも少し気味が悪いな。」

笑って話す木村には
危機感など微塵も感じられなかった。

「その黒い影ってのがさ、
やけに輪郭がはっきりしてるんだよ。
で、光沢が全く無いからそこだけ穴が開いてるように見えるんだ。」

始めは半信半疑であった僕でも何か不穏なものを感じて、
黒い影をお祓いをしてもらうように言った。

木村は渋っていたが僕はなんとか説得して、
後日近くの神社に行くことになった。

「どうせあんなものインチキだよ。
相談したところでどうにもなんないさ。」

そう高を括る木村は
自分の身よりも幽霊という話のタネのことを心配しているようだった。

「あれを祓うことなどできない、
早く引き払った方が身のためだ。」

僕がアパートの名前を告げた途端、
神主は目を剥いて血相を変えそう言った。

「すぐ出なさい。今すぐに。」

神主の顔には明らかに恐怖の色が浮かんでいた。

僕達に念押しをすると
足早に神社の奥へと去って行った。

僕は唖然としていたが、
木村は全く意に介している様子が無かった。

「そうそう格安物件を捨てられるかよ。
生活かかってんだ。」

そして木村はこう続けた。

「それに、
神主ですらさじを投げて逃げ出す幽霊アパートなんて
箔がついちまったしな。」

僕は呆れて物も言えなかった。

それから一か月経った頃、
全く音沙汰の無かった木村から連絡があった。

「今すぐ来てくれないか。」

もう夜の十時を回っていたし、
僕は明日にしてほしいと言ったのだが。

「頼む。」

彼の声色は今まで聞いたことがないものだったので、
僕は少し心配になった。

僕が返事をしないうちに電話は切れた。

公衆電話の耳障りな音が
その日に限って不気味に聞こえた。

アパートについたのは十一時頃だった。

呼び鈴を押しても反応が無く、
ノブを回したらドアは開いた。

木村は部屋の隅で布団をかぶり
膝を抱えて座っていた。

一体どうしたのか聞いてもただ首を振るばかりで、
彼が落ち着くまで僕は冷蔵庫から拝借したビールを飲んでいた。

その時から部屋の異様な雰囲気を感じていたが
僕は黙っていた。

十分程してやっと彼は口を開いた。

「触ってしまった。」

「便所で用をたしていたら
ドアが少し開いていたのに気づいたんだ。
俺は面白半分でそこに黒い影がいるんじゃないかと思って覗いたんだ。」

木村の顔はやつれていて
目の焦点が合っていなかった。

「でも隙間は真っ暗で何も見えなかった。
だから俺は隙間に手を入れてみたんだ。
そしたら…」

彼は全身をガタガタと震わせていた。

額には脂汗が浮かび呼吸も荒かった。

「この手を見てくれ。」

彼の手には無数の発疹ができていて
先端は黒くなっていた。

何度も引っ掻いたのか
皮膚は赤くなっていて血が滲んでいた。

僕はそれを見て背筋が凍り、
全身に鳥肌が立った。

「すごく痛くて痒いんだ。
どうだ鳥肌もんだろ。」

口元を歪めてそう言う木村の目は笑っていなかった。

「それにすごく寒い。
医者に診てもらったんだが、原因不明だそうだ。」

暫し沈黙が流れる。

「もうすぐ俺は死ぬ、そんな予感がする。
死ぬ前に誰かに話しておきたかった。」

僕は彼にかける言葉も見つからなかったし、
してやれることも思い浮かばなかった。

突如部屋の空気が変わった。

木村は布団にうずくまり
その震えを強めた。

僕は全身の毛が逆立つような感覚を覚え、
冷汗が滴り落ちてきた。

押し入れで何かが暴れるような音が聞こえ始め、
徐々にそれは大きくなっていく。

今思えばその音は押入れから響いていたのではなく、
耳元で聞こえていたのかもしれない。

部屋はおろか、
襖にも揺れが伝わっていなかった記憶がある。

鼓膜がおかしくなる程に音が大きくなった時、
突然その音が止まる。

同時に木村がこの世のものとは思えない、
耳をつんざくような絶叫をあげた。

僕は靴を掴んで部屋を飛び出した。

逃げ出したい気持ちを必死に抑えていたが限界だった。

終電は間に合わなかったので
近くのカプセルホテルで夜を明かした。

とても眠れなかったが、
近くに人がいるので少しは安心できた。

翌日、罪の意識から彼のアパートへ向かった。

だが彼の姿は無く、
その後彼が帰ってくることも無かった。

警察や大家は夜逃げと判断して、
彼の家族も失踪届を出したっきり何もしなかった。

数年後、用事で近くを寄ることがあったついでに
そのアパートへ赴いたが
とっくに取り壊されていて駐車場になっていた。

このままでは寄った甲斐がないので、
いつぞやの神主に会うことにした。

僕があのアパートについて聞くと
神主は顔をしかめながらも話してくれた。

黒い影はあの後も出たらしい。

何人かがあの部屋に入ったらしいが
すぐに出て行ったとのことだ。

神主も何度か相談を受けたのだが、
入居者が共通して言うことは
黒くてわけのわからないものがいるとのことだったらしい。

黒くてわけのわからないもの。

僕はてっきり人の形をしているのかと思っていたが
その造形は無茶苦茶だったらしい。

では木村は何故黒い影が
自分の方を向いていると解ったのだろうか。

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