友人の話。

深夜、
漁港の突堤で釣りをしていた時のことだ。

普段なら同好の志が五、六名はいるものなのだが、
その夜は彼一人だけだったらしい。

「独り占め、独り占め」

そうポジティブなことを考えながら竿を振っていると、
どこからか声が聞こえてきた。

女性の泣き声のようだ。

突堤の端を見やると、
何やら白い影が蹲っている。

しゃがみ込んで、
両手に顔を埋めていた。

髪が長い。

こんな時間にこんな場所ですすり泣いているなんて、
何かあったんだろうか?

しばし悩んでから、
声を掛けることにした。

「どうかしたんですか?」

そう声を掛けた途端、
泣き声がピタリと止まった。

しかしうずくまった影は、
ピクリとも動かないままだ。

そのまま見つめていたが、
やはり固まったように全く身動ぎをしない。

近寄って様子を見てみようかと思い、
釣り竿を下に置いて向き直った。

ギョッとした。

女は顔を上げて、
こちらをじっと見ていた。

目の部分に眼球が見当たらず、
大きな黒い穴がぽっかりと空いている。

それでも友人には、
女が自分を見つめているのだと、
何故かはっきりわかったという。

同時に、
おかしな事にも気がついてしまった。

女の側には明かりが一つもないのに、
どうしてあんなに細部まではっきりと見えるのだ?

女は相変わらず、
動く気配を見せない。

サッサと逃げ出すことにした。

手早く道具を片付けて、
荷物をまとめる。

肩に担ぐ前に再度、
向こうの様子を確認してみた。

女は立ち上がっていた。

しかし、やはり動いていない。

その時、ふと、奇妙な事を思いついた。

もしかしてこの女、
俺が見ていると動けないんじゃないか?

試しに目を一旦逸らしてから、
ゆっくりと女に向き直ってみる。

女はこちらに向かって歩き出す格好をしていた。

両手を前に突き出して、
片足を空中に停めたままで。

もう一度視線を外し、
今度はすぐに女に顔を向けてみた。

やはり固まった姿で動かないが、
どう見ても先程よりこちらに近づいていた。

まるで、
“ダルマさんが転んだ”みたいだな。

そんなことを考えて苦笑した。

しかし、幽霊相手に遊ぶ気にはなれない。

そのまま背を向けて、
駐車場に置いた車まで走って逃げる。

振り向くと、
突堤の入り口に立つ白い影が見えた。

…嘘だろ。

移動距離を考えると、
あいつ、俺より速いぞ…

慌ててトランクに荷物をぶち込んでから、
再び後ろを確認した。

女は僅か数メートルの位置にまで近寄っていた。

悲鳴を上げて運転席に飛び乗り、
エンジンを掛けるや否や車を出す。

出す瞬間、
反射的にバックミラーを確認してしまった。

トランクカバーに両手をついた女の姿が映り込んでいた。

思い切りアクセルを踏み込み、
全速力で港から逃げ出した。

走っている際、
後ろを確認しないように注意したという。

外灯の多い街中まで帰ってくると、
やっと一息付けた。

あそこは結構通ってるけど、
あんなモノを見たのは初めてだな…

赤信号で停車中にそんなことを考えていると、
交差点斜め向かいにある店舗の大きなショーウィンドウに目が行った。

まるで暗い鏡のように、
ぼんやりと彼の車が映っている。

そして、その後ろに立っている、
両手を前に突き出した人影も。

…憑いて来ちゃってる…

真っ直ぐ帰宅するのを諦め、
一番明るくしているファミレスへ逃げ込んだ。

車から出る時も、店に入る前も、入ってからも、
絶対に後ろを見ることはなく、
また鏡の類いにも目を向けないように細心の注意を払った。

背後が壁になった席を選び、
夜が明けるまで、そこで凌ぐことにした。

空が白んできた頃、
ようやっと恐る恐る背後の駐車場に目を向けてみた。

不気味な影は何処にも見えなくなっていたそうだ。

安堵の余り、
思わず涙が少し出てしまったという。

「だからそれ以降、絶対に一人じゃ、
夜中にあの突堤には行かないんだ」

最後に肩を竦めながら、
彼は私にこの話をしてくれた。

「…そんな体験しながら、よく同じ場所に行けるよね…」

私がそう言うと、
彼はキョトンとした顔でこう言ってのけた。

「一人じゃなければ、ま、何とでもなるだろ」

釣りというものは恐怖心を鈍らせるのだろうか、
と呆れながら思った私だった。

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